NES駒ケ根
神経系
「本当の自分はどんな自分?」
感覚皮質・脳神経
自分自身に正直に、個々のアイデンティティを認め、自分の人生に責任をもつといった「存在の在り方」、また、社会的な交渉能力や、もっと一般的に言えば「環境に適応する能力」とリンクします。
なりたい自分から遠ざかっているかもしれません。
他の人たちの願望に合わせる必要はありません。
また、他人の意向に抵抗する必要もありません。
自分は誰であるかをクリアーにすること、真実の自分を無視しないことです。
また、自分自身であるためにすべてを理解しようとすることも不要です。
頭痛
自分に対する要求が高いです。
自分を卑下し自分の頭を叩いています。
いろいろな欠点(特に頭が悪い点)をあげつらっては自分を責めています。
「もう、うんざり!」
「頭にくるわ!」
「もう、いや!こんなことやってられないわ!」
「ああ、おかしくなりそう!」
「いっそ、壁に頭を打ちつけたいわ!」
「どうしてこうなっちゃったの?わけが分かんない!」
「もうたくさん!」
「これじゃあ、きっと怒られる」
「このままだとどうなるか分からない!」
「私ったら頭が悪いんだから!」
自分を評価する代わりに、自分の価値を下げています。
無分別なことをしでかした自分を受け入れられない経験をしょっちゅうしています。
または、人の先頭に立つことを恐れているかもしれません。
全てを理解しようとして無理をしている場合もあります。
他人の評価におびえて、心の中に曇りやゴミをためるのはもうやめて、物事を総合的に判断すると良いかもしれません。
認知症
過去の苦しかった記憶を忘れようとして、日常生活の仕事に没頭したり、他人の世話をよく焼く人に多いです。
記憶力はむしろ良い人が多いです。
他人に言えないような秘密を抱えており、その秘密から何とか逃れようとしている可能性があります。
そして、無意識に自分に苦しみを与えた人を恨んだり憎んだりするようになっているかもしれません。
周りの人は治ってほしいと切望しますが、残念なことに本人はあまり治りたいとは思っていないようです。
何かに対してじっと押し黙って耐えて我慢してきたのですが、今ようやく解放され、周りから世話をしてもらえる身になったからです。
過去に経験したことを許し受け入れ打ち明けて、認知症にならなくとも周りの人から面倒は見てもらうことはできる、ということを受け入れる必要があります。
顔
すぐに恥の感覚を持つ人
ちょっとしたことで侮辱されたと感じる人
すぐに罪悪感を持つ人
人の期待に応えようとばかりしている人
誰に対しても愛想よくしている人は、顔にトラブルが起きやすいです。
自分の本当の顔を取り戻しましょう。
顔面神経麻痺
何か重大なことが起きた時に、それに直面しようとしなかったことと関連します。
目
目は、明確に物事を「見る」能力を現しています。
何が起こっているかを「見たくない」ことに関係します。
ある人またはある物を失う危険を冒すくらいなら、それよりも目の前で起こっていることを見ない方を選びます。
細部が見えなければ、心を乱されることもなく、心の平和を維持できるからです。
想像が過剰になり悪いことが起きるのではないかと恐れています。
間違えることを恐れています。
あるいは人生に失望しているかもしれません。
視力の低下は日々の生活(多分それは嘆かわしい環境や状況)から逃避したい憧れに関係しているかもしれません。
右目は、自分の外に見るもの、父親の見方に影響します。
左目は、自分の中に見るもの、母親の味方に影響します。
目に関する思い込みはなかなか手放すのは難しいようです。
耳
耳は、「聞く」事の能力を表現しています。
聞きたい事と実際に言われたこと、首尾一貫しないことを言われたことに対する解釈との葛藤(特に大きな怒り)に関連します。
子供の時や、現在の人間関係で聞かされたことか、非常に批判的なことで耳を塞ぎたくなる感覚があったかもしれません。
難聴
自分が避難されていると感じやすく、防衛的です。
アドバイスさえ聞く耳を持てなくなっています。
また、他人に「ノー」と言えない人も耳が聞こえにくくなる傾向があります。
他人の悩みごとを親身に聞こうとする人にも多いです。
坐骨神経
坐骨神経は、無意識下(自分の心配は意識化されていない)の物質的な所有物を失う事への恐怖、物を所有することへの罪悪感など「将来に関する不安」にリンクしています。
お金や財産を失うことを心配している人は、表面意識では、自分がそれらに執着していることに気づいていません。
そのことに気づいたとき、物質に執着することはよくないことだと考えているので、罪悪感を抱くことになります。
坐骨の痛みは、罪悪感や自分自身を罰する必要性に関係しています。
また、物質的な領域に関わる恨み・抑圧された攻撃性・従うことへの拒否、などがあります。
自分が、物質に執着し、それを失うことを恐れていることに気づき、そういう自分をありのままに受け入れる必要があります。
物質を愛することはいけないことではないのです。